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レイキマスター仁科まさきが徒然に語っていきます

鈴木貫太郎と霊気

ちょっと難しい話しになりますが、記録のために書いておきます。
昭和天皇侍従長だった 鈴木貫太郎氏 は、1936年の二・二六事件の時に拳銃で銃撃されましたが、その時に奥さんのタカさんが応急処置に霊気を使ったということです。奇蹟的に回復した鈴木氏は1945年4月に東條英機のあとに首相に就任します。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/71/Suzuki_Kantaro.jpg
この鈴木氏と霊気の関わりは、既に自伝に書かれていたようですが、奥さんのタカさんのインタビューがNHKのラジオで放送されたことを、最近生徒さんのO夫妻から教えてもらいました。

第1回「ヒストリア・天皇のそばにいた男・鈴木貫太郎、太平洋戦争最後首相」
このタカさんは、すごいしっかりした人で、ご主人が襲撃されて血だらけになっているのに冷静に行動していますし、インタビュー自体実に淡々と話しています。当時の、政治家の奥さんというのは、江戸自体の武士の奥さんのように、非常に肝が据わっていたのですね。すごいと思いました。
 
そのインタビューの霊気の話が出てきる部分ですが
その前にね、霊気のほうでね、ちょっとしたその傷くらいならば止められるっていうことを聞いてましたからね、見るとね、眉間の左の眉間のところから血がどんどん出るし、胸のところから血が出るもんですからね、血の出るところを、あの、霊気で押さえてましたの。そうすとそこへ宮内大臣の岩佐さんが来られたんです

こんな生々しい生死の問題になるときに、サッと手を当てられるるのは、普段から霊気を使っていたとしか考えられません。(もちろん、番組としては彼女の「霊気」という言葉には一切反応はありません(笑)) 
さて、この「霊気」がどの霊気かという問題ですが、これはおそらく臼井霊気療法学会だろうと推測出来ます。そもそも、この鈴木貫太郎氏は海軍軍人で
 
 1923年(大正12年)海軍大将となり、
 1924年大正13年)に連合艦隊司令長官に、
 翌年海軍軍令部長に就任。
 
と上り詰めた人です。1922年から始まった臼井霊気療法学会と時期的な重なりもあります。他に5代目の会長になった和波豊一氏は、当時は海軍中将で政府の委員もやっていたので、お互いに面識はあったはずです。あくまで推測ですけどね。

鈴木氏は「正直に 腹を立てずに 撓まず励め」という五戒に似た遺訓を残していて、これが出身校の前橋市立桃井小学校の基本目標になっており、校歌の歌詞にも採用されているとのことで、面白いです。
 
更に面白いのは、このタカ夫人は結婚前、昭和天皇が4才~14才(1905~1915)の間に昭和天皇の保母をやっていたので、宮中との関連もあったはずです。霊気が宮中で使われていたのではないかという、疑問に刺激を与えますね。

最後に鈴木貫太郎氏の自伝「嵐の侍従長八年」(『特集文藝春秋』一九五六年一〇月)の関連部分を乗せておきます:

『すぐ現状を診断され、気忙し気〈キゼワシゲ〉に妻に繃帯はありませんかと云われ、ありませんと答えると何でもいいから白布を出しなさいとのことで、それならばと羽二重〈ハブタエ〉の反物を切つて使つた。一応それで出血を止めた。私は寒い寒いと云つたそうだが、だんだん冷たくなる、脚が冷える、例とかしてくれそうなものだと思つたが、怪我をした者は動かしてはいけないというので畳の上に転がつたままだつた。それでもどうやら一間ばかりの所につくつた床の上に移されたが、その動かした後で意識がなくなつてしまつた。塩田博士は雪の中を円タクを見つけて日本医大へ行かれたが、この時には稲垣博士と吉田博士が見えていた。稲垣さんは輸血の方へ電話をかける。妻は駄目かと心配しながら懸命に霊気術をかけている。そこへ白衣の塩田博士が二名の助手を連れて帰つて来られた。すぐにリンゲルの注射が打たれ、この時私は気がついた。』


『この時の顳顬【こめかみ】に入つた弾丸は耳の後に抜け心臓部の弾丸は背中にとどまつて今でも残つている。心臓を貫いたのだというのと、その傍を廻つたのだというのと二説ある。最近は心臓を貫いてもすぐ血をとめれば生ききられると云うことだが、これは妻が必死にやつた霊気術止血法が成功したのかも知れない。』

皆さんも拳銃で撃たれることはないと思いますが、ケガには霊気・レイキを積極的に使いましょう! (ラジオ情報を教えて下さったO夫妻に感謝です)